ひろしま美術館

ジュール・パスキン1885~1930

 本名はジュリウス・モディカイ・ピンカス。パスキンはピンカス(PINCAS)の綴りを並べ替えて改名したもの。1885年にブルガリアでユダヤ人系スペイン人の父とセルビア生まれのイタリア人の母のもと、裕福な家庭に生まれた。1901年、16歳のときから、父が営む穀物商を手伝うようになるが、ほどなくデッサンの才能を認められ、ウィーン、ミュンヘンなどを転々としながら美術学校に通った。1904年、弱冠19歳の若さで、当時ミュンヘンで人気のあった風刺雑誌『ジンプリツィシムス』の挿絵画家として採用され、専属契約を結んでいる。そこでのモティーフは庶民の日常や娼婦の生活がほとんどで、諷刺画によく見られる政治的あるいは社会的なものではなかった。翌1905年にはこの仕事を続けながら、パリに出て油絵の制作を始める。すでによく名を知られていたパスキンは精力的に制作し、1907年にはベルリンで初個展を開く。第一次世界大戦が勃発するとブルガリアの徴兵を逃れるためにニューヨークに移住し、パスキンに続いて渡米したエルミーヌ・ダヴィッドと結婚、アメリカ国籍も得ている。フロリダ、ルイジアナなどを旅行しながら、土地の人々の生活をモティーフにしたスケッチを多数制作する一方、キュビスムの影響を感じさせる油彩画も多くはないが制作した。
 1920年10月にパリに戻る。そして全裸もしくは半裸の一人ないし二人の女性を淡い中間色で描いた油彩画によってエコール・ド・パリの花形画家となり、経済的にも成功する。だが取り巻きたちとの乱痴気騒ぎやノルウェーの画家ペール・クローグの妻リュシー・クローグとの恋愛関係などによって精神と肉体は次第に破滅へと追いやられていった。そして1930年6月2日、パリのジョルジュ・プティ画廊での個展前夜にモンマルトルのアトリエで自殺し、45年という短い生涯を閉じた。
 淡彩と無駄のない線によって描かれた彼独特の女性像は、ゆらめくような透明感を持っており、エロチックな憂愁を帯びている。メランコリックな雰囲気が漂うその作品には、彼の鋭く神経質なまでの危うい感受性が表現されている。

ジュール・パスキン《ギカ公女》
 

ジュール・パスキン
《ギカ公女》

1921年 油彩,カンヴァス 72.5×60.0cm

Jules PASCIN
Princesse Ghika
oil, canvas

 

ジュール・パスキン《緑衣の女》
 

ジュール・パスキン
《緑衣の女》

1927年 油彩,カンヴァス 92.0×65.0cm

Jules PASCIN
La Dame en vert
oil, canvas

 

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